「灰色猫のフィルム」 / 天埜裕文(第32回すばる文学賞受賞作)- 感想




2008年、第32回すばる文学賞受賞作です。

「執筆」という言葉の響きには原稿用紙に万年筆で文字をしたためていく、という印象が世間には未だに根強く残っていると思います。

しかし、現代で活躍している小説家の何人がそのように「紙とペン」を使って、小説を執筆しているのでしょうか。

今回紹介する「灰色猫のフィルム」という作品は、筆者である天埜裕文さんが、なんと携帯で10か月で書き上げたというから驚きです。

携帯電話を使用してでの執筆は、画面の小ささからくる不便さから、例えば一文が短くなってしまったり、執筆中は全体像を把握し辛いといったようなマイナスの面が多々あるように思われます。

しかしこの作品を読んでみて、「執筆の道具が何であるかは、作品の良し悪しにはあまり関係がない」という印象を受けました。

 

あらすじ

主人公の“僕“は実の母親を刺殺した後、自転車で家を飛び出し街に出る。

行く当てもなく電車に乗り、終点の街のとある公園のトイレで髪を剃り上げ、自分を殴り容貌を変えようとする。

空腹の状態で徘徊していた見知らぬ街で、あるホームレスが口にしていたパンを“僕“は3円で売ってもらう。

他人の事情には立ち入らないという暗黙の了解の上、“僕“はホームレスのハタさんたちの住むテント小屋で経歴を詐称したまま生活を共にすることになった。

「他人だから」という理由で親切にしてくれるホームレス達に徐々に心を開き始める“僕“であったが、小屋で飼っていた猫を殺した犯人だと勘違いされ、ハタさんとの取っ組み合いの中、“僕“は手にしていた挟みで彼の目を刺してしまう。

小屋を飛び出し、再び街を徘徊する“僕“はデパートの公衆電話の受話器を掴み、家の番号を押す—。



「灰色猫のフィルム」のみどころ

母殺しの青年

あらすじにも書きましたが、この作品では主人公は冒頭で実の母親を刺殺します。

 母親の腹は柔らかかった。ゴムの塊のような感触を想像していたが粘土に近かった。肉の弛んだ粘土のような腹を幾つかの穴が開いた包丁が突き刺した。赤ワインに似た色の液体がシャツに滲んでいった。白いシャツにどす黒い赤が鮮明に染まっていった。

「灰色猫のフィルム」

表現が生々しく、1ページ目のインパクトが非常に大きかったので、物語がこの事件を中心に進んでいくのかと思いきや、母殺しのシーンはあくまでも「“僕“が家を出ることになったきっかけ」にすぎず、その後いくら読み進めていっても母を殺してしまった主人公の後悔だとか、その動機などは一切語られません。

しかし、主人公の頭の中には「母を殺した」という事実が常に付きまとっています。

そのことに思い悩まされるような描写はありませんが、街を徘徊している時にパトロール中の警官の存在を気にしたり、身元がバレないようになのか、ホームレスの人たちには全ての経歴を偽りながら共同生活をしていきます。

「日常」から「非日常」の世界へ迷い込んでしまった一人の青年が、母殺しの十字架を背負いながら、非日常の世界で起こる様々な出来事に抗うことなく流されて生きていく、といったような内容の物語です。

 

巧みな描写力

この作品は、終始主人公の五感をフィルターにし、物事や出来事が無機質に語られていきます

その描写力の質は新人賞の作品とは思えないほど確かなもので、著者が実際にその場面を見たことがあるかのようにリアルに描かれています。

例えば“僕“があるホームレスのテントに連れてかれて行き、内部に横たわっている女の死体を目にするときの場面は、まるでその映像を実際に見ているかのような不思議な感覚さえ覚えます。

 男は猫を撫でるような声で言う。テントの中へ入ると湿度の高い、ねっとりとし空気が肌に付いた。女の目蓋を閉じた顔は綺麗とは言えなかった。唇が上下に大きく開き、口の端から舌の先が出ている。頬と額には青紫の痣がある。化粧は滲み眉は半分無く、目から耳に黒い液が線になって流れた跡が残っている。長い髪に隠れた首には髪の隙間から太く濃い紫の跡が見える。乳房には小さな内出血の斑点がいくつもあり、その間には白い肌の下の青く細い血管に線が透けて見える。

「灰色猫のフィルム」

 

全体の感想として

個人的にはこの作品を通しての主題は、普通の生活の道を踏み外してしまった青年が抱える虚無や孤独といったものだと思いますが、最終的にはこれといって救いのようなものはありません。

また、一人称で物語が進んでいくのにも関わらず、主人公である“僕“の意思だとか感情といったものはほとんど描かれておらず、主人公がどんな考えを持って行動しているのかが終始全く掴めません。

そのため、何か「意味」を見出そうとするような小説の読み方をする方にとっては、場合によってはフラストレーションが溜まってしまう小説なのかなとも思ってしまいます。

かなり純文学寄りの内容なので、好みが分かれる作品だと思いました。

 

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